ー事物の儚さの認識、およびそれらの事物を永遠の中に救いとらんとする配慮こそ、
寓意(アレゴリー)なるものにおける最も大きな動機の一つであったのだからー
ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』
以下は2016年初演時の作曲者のコメントです。
昨年 7 月から 9 月にかけて作曲しました。「あやとり、手つなぎ、かくれんぼ」「優しい水 の湧く泉」「朝焼けまで」という三つの楽章からなっています。それぞれ題名に関係する描 写的な場面が出てきますので、タイトルを手がかりに音楽の世界に入っていっていただけ ればと思います。教訓なり隠喩なりを読み取るのが本来の「寓意」ですが、ここではイメー ジを入口にして一つの音楽的な想念の連続を体験していただくという程度の意味です。
ファゴットの井上俊次氏にはミュンヘンに留学していた折に良くしていただきました。 それから 20 年近く、ご活躍ぶりは読響のステージで拝見してきましたが、今回、素晴らし いみなさんと拙作を初演していただけることに感謝しております。本作をアミューズ・クイ ンテットに献呈いたします。
寓意(アレゴリー)とは、allegoria(別の仕方で言うこと)というギリシア語が語源になっています。その語源通り寓意とは、ある抽象的な概念などを具体的なものによって語る技法のことを意味します。作曲者のコメントにもあるように、その寓意が語る概念的なものには、しばしば教訓や隠喩が含まれます(イソップの寓話を思い出してもらえると分かりやすいと思います)。
寓意の手法は古代ギリシアの時代に生まれ、長い歴史を持つものですが、近代になってから美学の領域では寓意は象徴に比べると劣ったものであるとしてその価値を軽んじられてきました。その状態から、20世紀に寓意の価値の復活を掲げたのが冒頭で記したヴァルター・ベンヤミンなどの思想家でした。
「三つの寓意劇 ―木管五重奏のための(2016)」は、一楽章「あやとり、手つなぎ、かくれんぼ」、二楽章「優しい水 の湧く泉」、三楽章「朝焼けまで」という副題から、私は子ども時代の風景を連想します。子ども時代の風景という、二度と体験できない経験が寓意的に表現されることによって、自分自身の過去がベンヤミンの言うように永遠の中に救い取られていくような思いがします。
作曲者のコメントにあるように、この曲は(ある特定の教訓や隠喩が込められていないという意味で)「本来の『寓意』」ではないとすれば、私が子ども時代を連想したように、聞き手が各々で寓意的な解釈を行ってみてはいかがでしょうか。
一楽章「あやとり、手つなぎ、かくれんぼ」
オーボエの跳ねるような民謡的主題で始まる。この主題は曲中繰り返し現れて展開される。最終部はオーボエとフルートによるゆったりとした抒情的な旋律で楽章を終える。
二楽章「優しい水 の湧く泉」
ホルンの力強い旋律から始まり、各楽器がそこから追うように旋律を奏でる。中間部は各楽器が水が交差するかのように絡まり合いながら展開していく。最後は不安定な和音で閉じられる。
三楽章「朝焼けまで」
リズミカルだがどこか不安げな楽章。早朝に出かけなくてはならないのに、なかなか目が覚めなくて大変な子どもと、その家族の姿が私には連想される。
(写真は先日雨が降ったあとのつくば市の田んぼと筑波山です。ちらっと覗かせた空の青が綺麗でした)
(文責:人社 勝俣)